2014年03月02日
30年前の大島青松園 1(ハンセン病とは)

2013年11月7日 NHKのハートネットTVで「ハンセン病 島の記憶をつなぐ」という題名で
瀬戸内国際芸術祭における「国立ハンセン病療養所 大島青松園」での取り組みが紹介されていました
他の島の展示と違い、展示を巡る前に、納骨堂の前で、園の歴史のレクチャー等がある様です
番組の中で、入園者数が80名程に減少し、古い建物が、取り壊されている事を知り
何か出来る事はないかと考えました
実は、30数年前の学生時代、縁あって大島青松園を数回訪問しています
「ワークキャンプ」という形で訪問しました
ワークキャンプの目的は、
軽作業のお手伝い そしてハンセン病の正しい理解と啓蒙でした
各種団体(宗教に縁のある団体・縁の無い団体)が、同じ様な目的で訪問し、特に夏休みは若者が集まっていました
訪問形態はいろいろで、日帰りや縁のある各宗教団体の施設で寝泊りするなどでしたが、
私達は、出来るだけ迷惑が掛からぬよう、キャンプという形を選び(何年も継続し、すでに伝統になっていました)、
夏休みに1週間程なのですが、京都からキャンプ道具を持参して、園内の外れの海岸でテントを張り、自炊生活を送りました
メニューとしては、午前・午後 1回ずつ園事務所の指示に従い、草刈や清掃等の作業を行ないました
その頃は入園者の方達もお元気で、一緒に作業を行ない、休憩時間には、お話をお聞きしました
園事務所で、職員の方との質疑応答もあり、現状を教えて頂きました
一番力を入れていたのが、空き時間や夜に、訪問OKのお宅を訪問し、入園者から、生のお話をお聞きする事でした、
時には宴会もやりました
入園者が一番望んでおられたのは、啓蒙活動だったのですが、世間に戻ると、なかなか話をする場(聞いてもらえる)をこしらえるのが難しく、
あまり話を伝える事無く、今日に至ってしまいました
有難い事に、インターネットのお陰で、個人が不特定多数に情報を発信する事が簡単に出来る様になりましたので
興味のある方だけで、構いませんのでご覧ください
なお、これから書き示す内容は、主に当時の聞き取りと、病気の説明や年譜は、以下の2冊の本から引用させて頂いています
情報が古いので、ネットから最近の情報もお借りしました


強制隔離政策が、行なわれた為、どの様な病気で、どんな事が起こっていたか世間に知れ渡っていません
そこでまずは予備知識として、簡単な案内をさせて頂きます
最初に誤解の無いように
現在の入園者は完治した無菌の方達です。元患者や入園者と呼ばれます
ハンセン病とは・・・・
「らい病」の事です、差別語(差別を増長する恐れがある)に当たるので現在は、ハンセン病と呼ばれます
若い方は、らいと聞いても何の事か分からない人もおられるでしょう
逆に、年配の方は、ハンセン病とは、らい病の事だったのか、と気づいて頂きたく、あえて記載しました
ノルウェーのハンセン氏が、らい菌を始めて発見した為、現在はハンセン病と呼ばれています
らい菌
らい菌自体がとても弱く、いまだに試験管での人工培養は出来ていません
らい菌の毒性は極めて弱く、人の体内にらい菌が侵入し、感染が成立しても、発病することは極めてまれです。特に成人がらい菌に感染した場合には、らい菌に対する免疫機能が先天的に不十分な人がごくまれに発病する以外は、発病することはないと考えられています。
感染してから発症するまでの潜伏期間は長く、3年から5年とされています。ただし、10年から数十年に及ぶ場合もあります
これから説明する症状は、発見が遅れ、特効薬も無かった昭和20年代前半までに発症した人の典型的な例です
一度詳細に書きとめてみたのですが、あまりに文章が長くなる為、読んで頂けなくなるのではないかと、思い方針変更しました
簡略な説明になります
LL型(らい腫型)とTT型(類結核型)の二つに分類され、症状に異なる部分があるのですが、説明はまとめさせて頂きました
症状
知覚障害
菌が末梢神経に好んで住みつく為、もっとも激しく破壊されます
知覚神経は体を外傷から守る防御機構ですが、これがマヒすると、たとえば100℃を20~30℃にしか感じられなくなり、大火傷を負う
触覚、痛覚が鈍る為、手足を物に激しくぶつけてしまう。その際、筋肉が弾力を失っているので、骨を直接ぶつけた格好になり、ヒビが入って炎症を起こし、切断することになる
主な症状
手・足
主にひじ・ひざから下の触覚、温度覚、痛覚が鈍り、深部感覚、つまり何かに当たったらしい、ということだけはわかる。
運動神経の麻痺から手足の指が曲がり、ひどくなると「垂手」といって手首が働かずブラブラ状態になります。足も同様で指が曲がり、足首が働かない「垂足」になっていきます。体重を支えているだけに、足は特に重症になりやすく、指がそり、つま先立ちで歩く格好になる為、少ない面積に体重が掛かり、足をくじいたり、骨を痛めたりします
結節
LL型に多く、菌が皮膚の一ヶ所に集まると硬い隆起ができ、中心部は血が通いにくいので破れやすく、化膿して膿がでる。戦前は全身に結節ができ包帯だらけの人も珍しくなかったそうです。顔に激しい結節ができた状態を獅子面(ししめん)と呼んでいました
顔面神経
病気が長びけば顔の神経も破壊され、筋肉が動かせなくなり、無表情になり、唇も垂れ下がり、目の下の筋肉も垂れ、兎眼(とがん)といって、下まぶたの赤い部分が見える状態になります
盲目
兎眼になると、まぶたが閉じないので、布団や何かで眼球を傷つけてしまう。入園者の最大の恐怖は目が見えなくなることです。知覚神経麻痺だけでも日常生活に著しい支障があるのに、盲目が加われば、その苦悩は想像を絶するものとなります。点字は触覚の麻痺した指では読めない為、舌で読むことになります
のど
のどに結節ができると、窒素死の危険があり、仮に気管を切開しても、空気中の雑菌をじかに吸い込んで肺化膿症を起こしたり、結核を併発しやすくなります。「のど切り3年」(のどを切ると3年で死ぬ)という言葉があった程でした
内臓
内臓に病変を起こすのは、LL型に限られ、腎臓、肝臓、脾臓、副腎、心臓などに結節ができやすく、消化器系にはほとんど症状が出ません
脱毛
発毛部に結節ができると毛根がつぶれて毛が抜け、再び生えてこない為、眉毛や頭髪が抜けた人が多い。黒い眉毛はたいてい植毛、かつらの愛用者も多いそうです
その他
末梢神経の麻痺した場所は、発汗や皮脂分布がみられず、汗の出ない入園者にとって、夏は「動く気力も失せる」季節です
不治の病から可治の病へ
特効薬プロミン
1941年(昭和16年)アメリカで、特効薬プロミンが開発され、1947年(昭和22年)から使用が開始され、不治の病が可治の病に一転しました
プロミン(特効薬)以後、社会復帰できる人は、ほぼすべて、社会復帰されたと、その当時に自治会の方からお聞きしました
現在園におられる方は、身寄りが無かったり、身寄りがあっても、親族に差別が及ぶのを恐れて、あえて残っておられる方。病気の後遺症の為に社会復帰が難しい方達です
その2へ続きます
園内の案内をしていきましょう(30年前の写真です)
写真は1985年(昭和60年)を基準に、前後数年の写真です
この定期船で、島へ渡ります

この桟橋から上陸します

定期船 手前が「まつかぜ」奥が「せいしょう」です

青松園の入り口です

門の北側は「心月園」という庭があります

静かにメロディーを流す盲導用スピーカー
場所によって流す曲を変えてあり、盲人の方が、今どこに居るかが判る様になっています

心月園を北に向かうと、大島会館にあたります
この写真は1985年(昭和60年)で、ちょうど会館が、お色直しをしたところでした


その2へ続きます
ハンセン病に関して詳しく知りたい方は「厚生省の歴史から学ぶハンセン病」や「国立ハンセン病資料館」の「ハンセン病資料館キッズコーナー」が判りやすく説明しています
「30年前の大島青松園2」
「30年前の大島青松園3」
2016年に大島青松園に訪問した時の記事はこちら