長い月日が過ぎました
1996年(平成8年)らい予防法が全廃されてからでも、18年経っています
私は、社会に出てから数回、結婚してからも妻子供と共に、何回か親しくなった入園者を訪問しています
最近はご無沙汰していますが、年賀状だけは、毎年やり取りして頂いています
月日の経過と共に、訪問の度に話題に上るようになった、入園者が心配しておられる事って何だと思われます?
今、入園者の最大の関心事は、療養所が統廃合されてしまうのではないかという不安です
厚生労働省は「最後まで面倒を見る」と言っていますが、これまでの対応や、「薬害エイズ」の時の対応等の前科を考えると、手放しでは信用できないでしょう
1985年当時、600数十名居られた入園者が、80名程に減ってきています
資料がありませんので憶測ですが、強制隔離政策のせいで故郷に身寄りが無い方・家族・親戚に迷惑が掛かるので残っておられる方・後遺症の重い方・自治会や宗教関係で責任があり、残っておられる方ではないかと・・・
入園者数が減って、仮に統廃合となった場合、離れ小島なので定期船等の余計な経費が掛かる、ここ大島青松園が真っ先に標的になるでしょう
最初に「他所の療養所へ移って下さい」と、言われてしまいそうです
考えてみてください、肉親に差別が及ばないように、死んだ事にして、名前を変え、故郷と決別して、強制隔離され、ここ(大島)が故郷になっているのに
やっと、安住の地となったのに、国や地域から散々差別を受けてきた方達なのに、国は、再びここのお年寄りに無理強いをして、「他所へ移って下さい」と言ってくるかもしれません
もし、「ハンセン病療養所が統廃合されるかもしれない」というニュースが出た時には、「統廃合反対の声」をあげて下さい
何も知らなければそのままスルーだったのでしょうが、
ここまで読んで頂けたあなたに、是非とも、お願い申し上げます
園内散策の続きです(30年前の写真です)
桟橋に戻り、南向きに、西の浜を眺めた所です
桟橋から南へ向かうと、園事務所(地図では管理棟)があります
園長が居られる場所です
この頃は、ゲートボールがブームで、盛んにプレーしておられました
使われなくなった野球のグランドを、コートにしています
小学校です、島に元々住んでおられる方と職員のお子さんが、通っていたと思います
ここで思い出しましたが、職員の方も、そのお子さんも園に居るというだけで、差別されていました
又、子供が大きくなってからも結婚となると、本人同士は良くても勤め先を知ると、相手の家族や親戚などから反対される事があったそうです
貯水池です 南の山の中にあります(私は行った事がありません)
園の井戸は、塩分が多く、飲料には適さない為、入園者が増えてからずっと水不足でした、
そこで雨水を溜める貯水池が、1939年(昭和14年)にやっと完成しました
貯水池は出来ましたが、瀬戸内気候で雨が少ない為、思った様に水は溜まらず、時間給水が続きました
ようやく1965年(昭和40年)に海底送水管が通水し、待望の二十四時間給水になりました
せっかく完成した送水管ですが、1968年(昭和43年)に漁船の錨で破損、再び時間給水となり、復旧したもののその後何回か破損を繰り返し、1971年(昭和46年)にようやく海底送水管が更新され、安定した二十四時間給水になりました
南の山の中から、西の浜を望んだ所です
左隅に桟橋が見えます。こちらの防波堤の真ん中辺りで、キャンプをしていました
キャンプサイトです
手前のお墓は、元々島に住んで居られる方のお墓です
今はまず見ることの無い三角テント(それも10人用)です。四国に橋が架かっていない時代でしたので、このテントや鍋釜をJRに乗って、京都から運びました
ここで一週間程過ごしました
キャンプサイト横の防波堤から、この様な夕日を見ることが出来ます
ここからはワーク作業です
ここ福祉室事務所に集合して、その日のワークが割り当てられます
午前・午後と1回ずつ、人数が多い時は、班分けしました
作業は園の職員さんとより、入園者の元気な方と行なった方が多かった気がします
大概が草刈なのですが
ある時は、防波堤近くの倒木の解体をしました
学生のやっている事なので、このようなおちゃらけ行為もありました。バッターのつもりです
ある時は、心月園の池の掃除を行ないました
ある時は、相愛の道の碑の土台を、コンクリを練って固めました
固めた時に四角い杭が曲がってしまっていたのですが、翌年訪問したら直っていましたので、後日手直しされたみたいです
お盆の飾り付けの撤収です
休憩時間には、飲み物(コーヒーやジュース)を、頂きました
飲み物の提供元が、園事務所からなのか、自治会からなのか、それとも外部団体からの寄付なのか?
聞きそびれました
麦藁帽子を被っておられるのが、入園者です
仏具?の掃除 休憩中か?
写真がありませんが、ある班は、納骨堂の骨壷の布の交換をさせて頂きました。参加者は、大変緊張したと言っておりました
ワーク以外の時間に、家庭訪問の時間を作って頂き、訪問させて頂きました
家庭訪問でお話して頂いた経験は、その後の人生・価値観に影響があったと思います
宴会もやりました、とてもアップ出来るような写真ではありませんので割愛いたします
今回、話をまとめるにあたり、いろいろな方のブログや書き込みを拝見しましたが
得ている情報が少な過ぎ、その結果の不理解が多いと痛感しました
過去に、どんな事が起こっていたか、今、世間の人に知って頂かなくては、手遅れになると思い書き留めました
上手にまとまってはいませんが、大島青松園の事しか伝えられませんが、ハンセン病に感心を持って頂ける方が一人でも多くなれば、幸いです
再び「瀬戸内国際芸術祭」が開催されるなら、是非とも、大島青松園へお越し下さい
お願い申しあげます
ハンセン病に関して詳しく知りたい方は「
厚生省の歴史から学ぶハンセン病」や
「国立ハンセン病資料館」の
「ハンセン病資料館キッズコーナー」が判りやすく説明してい
「
30年前の大島青松園1」
「
30年前の大島青松園2
2016年に大島青松園に訪問した時の記事は
こちら